母影(おもかげ)


太平洋戦争中の話である。
その人は当時、南方のとある島で戦っていた。作戦中、部隊がバラバラになって夜中の密林をひとりさまよっていた。星ひとつ見えない密林の闇の中。ガサッという音が敵か味方か、あるいは獣なのか、右左すらわからない暗黒の世界。
手にする三八銃だけが頼りと抱き締めるようにして、ただただ朝を待った。
ふと人の気配がして、はっと身構えた。
その目の前を母親が、歩いている。
漆黒の密林を、田んぼのあぜ道を歩くように横切って行く母親。
背中が見えかけたところで、ふっと消えた。

「ああ、おふくろが、今、死んだ」と思った。
戦友が次々と死んでいく毎日。
自分も今日死ぬかもしれない、明日死ぬかもしれないという中で、たとえ幻でも最後にひと目母と会えた。
母がこんな南方の戦地まで会いに来てくれた。
母の消えた闇を見つめているうちに、頬を涙が流れた。

戦後、奇跡的に内地に戻れた。

家に帰りつくとすぐに、家の者に母親の安否を問い質した。
「亡くなった日は、もしや……?」
その日付までを正確に知っていることに、みながひどく驚いた。
理由を話すと、「お前に会いに南方まで……」とおやじが沈んだ。

母は会いに来てくれたのではない。自分を一緒に村まで連れて帰りにきてくれたのだ、と思った。
戦地で会った母の姿が、子供の頃、夕方暗くなるまで時間を忘れて遊びつづける自分を迎えに来てくれた姿と同じだったことに、はじめて気がついた。
「はやく家(うち)に帰ろう」という母の姿と戦地での母の姿が重なって、声を出して泣いた。
いつまでも涙が止まらなかった。
おふくろは生まれてから一度も、村を出たことのない人でした、と語り終えた。

(第八夜 31話)


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